日本体験 外国体験 Experiences in different cultures
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沖慎一さん

日本語教師から見た外国人(下)


by 沖 慎一 (三井ボランテイアネットワーク事業団、日本)

 1995年夏以降、半蔵門の凡人社内掲載の求人欄から探した日本語学校2、3社から仕事の話があってから2年目に、日本橋浜町にあるフランス人のコンサルタント会社でかれこれ2年近く、5、6人の者を3人ずつ、あるいは1人ずつ3時間位、連続で教えることを任された時期があった。最終目的は日本語能力試験合格にあったが、各人個性豊かで、漢字おたくといわれるほど漢字だけには強いが過去に1級に失敗した男や、日本に彼女を持ち読解を好む粋な男、それら数人を統括する女性部長など多士済々だった。結局その会社に勤めている社員を在職中に合格させるというめぐり合わせにはならなかったが、フランス人気質を知る上で貴重な体験だった。

 その後そこを辞め、確かフランステレコムに転社した女性部長から個人的に連絡があり、1年くらいみっちり教えて(講談社Reading Japanese Financial Newspaperの読解など)2級の能力試験に合格させたことがある。

 2年くらい教えたもう一人の日系5世という女性がいた。日本のバブルが弾け、アメリカから多くの投資顧問会社が進出して来た時期がある。ホノルルに本拠をもつ中堅の会社の日本での営業担当で来日、既に日本語は1級合格ずみで、さらに日本語をブラッシュアップさせたいというので、日経新聞や自ら持ってきた雑誌の切抜きの解説をしたり、日本人と逢う時のマナーや言葉使いなど多岐に渡って指導した。会社では、日本人に日本語を習っているというのを隠しているらしく、一人住まいのアパートでの教習は1年半は続き、その後も2度ばかりコメントを求められた事があった。彼女にはじめに日本語を教えた者が東北地方のものだった為か、最後まで独特のイントネーションは直らなかった。長続きしたのは、なぜか2人とも30、40台の女性だった。

 女性の話が出た序に、ある時期3人のアメリカ娘を別々に教えていた時期があった。
  教える国ごとに国民性が違っていて、特徴があると言われる。確かにEUからの学生団体として来日し日本語能力試験を目指していた受験生の中にドイツ人がいて、日本語の文法について理屈っぽい質問ばかりを発する男性がいたので、ドイツ人はよく言われるように理屈っぽいなと感じたこともあったが、個性豊かなアメリカ3人娘を教えていて国別ではなくやはり個人個人の個性が違うのだなということをつくづく感じたことがある。

 アメリカ娘は一般にオキャンで愉快で楽しい女ばかりだと思われがちだが、JCAで出会った東大歴史学科に研究生として留学中の夫を持ち自らも日本史、とりわけ江戸時代の歴史を東大で勉強する女性は、おとなしく、時間も正確、出欠の連絡も確かで模範学生だった。
  それに引き換え、有名なN日本語学校の英語教師を勤めるWさんはだらしない女性だった。毎回のレッスン毎にフィーを戴く事になっていたが、現金は持ち合わせず、帰途私を銀行に連れて行って待たせて銀行から引き出して渡してくれるのが常だった。こういう女性ばかりではないのだろうが、ただ英語が話せるということのみで、国内の日本語学校の英語教師を務めるにわか教師が多すぎるのではないだろうか。
  反対に日本語教師の資格を持ちながら、各所を掛け持ちで汗水流して教え歩いて1週間に40時間近く教えている30歳台の男性教師を見ていると、これでは情熱を燃やして専任教師になろうという男性が少ないのも無理はないと感じたこともあった。

 外国人のビジネスマンを教えるのには、国内でいくつもの修羅場を潜り抜けたビジネスマンをリタイアした方が有利だとの話もあるが、子供を背負って片言から辛抱強く教えている母親を見ていると、言語教育は母国語であれ、外国語であれ、やはり女性有利と言わざるを得ないのではなかろうか。

 久しぶりに4級の試験を目指す日本語を3年習った事があるというアメリカの女子学生をボランテイアとして現在教えているが、かつてアングロサクソン系ビジネスマンを3、4人は教えたろうか。一言で言うとアングロサクソン系の外国人は、イギリス人、オーストラリア人、アメリカ人であれ、いざという時は英語で通じるという武器があるせいか、日本語学習には今ひとつ熱心さに欠ける場合が多いような気がする。それでいて教師には精一杯の要求を突きつけ、生徒が先生を評価したがる傾向が強いのはアメリカの教育の特徴だろうか。

 教え始めて3カ月くらいで、夏休みに外国旅行へ行って1週間不在のことがあり、学校から臨時に外の教師に代講を依頼したことがあった。1週間経って、土産を持って立派なマンションを訪ねた夜、本人から学校を通して私の教え方には不満だと突然首を切られた事があった。試験的にテストしてからというケースなら兎も角、臨時の代講で、しかも直接ではなく学校を通しての仕打ちには、自分の未熟さは認めるものの、アングロサクソン系外国人、とりわけアメリカ人のヤリ口には憤りさへ感じた事があった。以来アングロサクソン系の外国人に対しては、教える前から身構えるようになったが、学校側は「教師と生徒の相性もあるのです」といって慰めてくれたが、半分は本当かも知れないと思っている。

 近隣の韓国、中国、台湾などの東洋人と、西欧人との日本語に対する考えの違いも大きいように感ずる。諺一つ取ってみても、西欧人に諺を理解させるのはかなり大変である。日本では知己の多い人を「顔が広い」というが、韓国では確か「足が広い」と言うそうで、日本では「お湯を沸かす」というが、中国でも同じだと聞いた。日本人間は以心伝心で通じるというが、近隣の民族間にも有無相通ずるものがあるように感ぜられる。

 教師の仕事は、機械には代えられないと言われるように、コンピュータ相手の仕事とは違って、かなり人間くさい仕事なるが故に、翻訳とは違って今後も残る代物であるのは確実であり、うまく行くかどうかは結局、互いの信頼関係に依存すると思われる。韓国人も日本文化研究会のF先生の関係でご紹介を受けた財閥系の会社2社の部長クラス以下5、6人の方と数年にわたって接する機会があったが、日本語文に近い構造を持った韓国語のせいか、概して理解が早く、紹介を受けた「日本社会再考」を読解の教科書の内容についても大方すぐに馴染んでくれたような気がする。

 この5年ばかり、駒沢公園に近いK大学への交換大学生としてオーストラリア・ブリスベーンや台湾、中国、韓国、最近は毎年アメリカ、フランスからも来日する留学生が12名は来日しており、ここ3年位はほとんど日本語能力試験を指導して来た。近隣諸国の韓国、台湾、中国からの学生の日本語レベルの向上は素晴らしく、1級では320〜340点クラスが普通となってきた。フランスからは秋に2名ずつやってくるが、フランスで来日学生の指導に当たっている日本人の指導教師の力も大きいと見られる。

 1級受験者(大部分は台湾、香港、中国、韓国出身者だが)には、ここ2年、日本語のどこが弱いかを聞いて、プレースメントテストをやり、文法とか聴解とか一つの科目を重点的に指導するだけで十分といった状況が続いている。日本にやってくる韓国、中国の学生は勿論、韓国財閥のビジネスマンも皆日本びいきで、嫌日感情など何処拭吹く風といった状況だが、ここ暫く続いている険悪な両国関係が早く好転するよう願って止まない。
〈2005年8月〉