日本体験 外国体験 Experiences in different cultures
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沖慎一さん

日本語教師から見た外国人(上)


by 沖 慎一 (三井ボランテイアネットワーク事業団、日本)

 1989年末と言えば、バブルの絶頂期、そしてそろそろ弾けそうな時期であった。化学系エンジニアリング会社にいた私は、その10年くらい前に、日本の借款でインドネシアの7病院に納入した各種医療機器が一部使用されないままに野曝しになって放置されている実態を調査・把握し、修復するコンサルタントを主とする業務を、他の日系企業2社とともに受注し、わが社はそのマネージメントを担当する事になった。ところがたまたま、わが社のマネージャーが罷免される事件が起こり、その後始末を私が年の功で現地に行き立て直すことを命ぜられた時期でもある。

 それから1年半ばかり、インドネシア・ジャカルタ郊外にある400坪の借り上げ住宅で昼は10数人の現地人、たまに業務出張で来イする日本人を交えて業務をこなしつつ、土日は私とともに広い邸宅内で起居を共にする男女の使用人2人(英語はほとんどど話せないので、難しいコミュニケーションは取れない)との生活も慣れてきた頃だった。日曜日の午後、年齢12,3歳の中学生とおぼしき少女の来宅を受け、どうやら私に日本語を教わりたいということまでは分かったが、それ以上の会話は無理なので、明日来るようにと言って翌日待っていたが、結局それっきりになってしまったということがあった。

 あと2,3年もすれば通常定年になる年齢だった私は、日本語を教えるなら今がチャンス(日本の国力は80年代がピークだったのではないだろうか)と思い、以来会社を辞めたら日本語の教師をやろうと覚悟を決めて、帰国後今度はトルコでの石油掘削回収業務に携わった国内での最後の3年間は、夜渋谷の日本語教師養成講座に通いつつ、1995年でサラリーマン生活が終わった翌春、ちょうど日本語学校を卒業することとなるグッドタイミングに恵まれた。

 初めからサラリーマンに対象を絞って、日本国内での仕事を考えるならば先ずは日本の風土に慣れることが第一とのインドネシアでの経験から、世田谷区内にあって外国人に対する最大の日本文化紹介ボランテイア団体であるJCA(Japan Culture Association)に籍をおいて外国人とのお付き合いを考えた。

 その第一号は元々中国最西端にある新疆ウイグル自治区のウルムチ(2005年夏に旅行してきた)の西北に位置するイリ出身で3、4年前東北部の長春で教師をやっていたという30歳代の青年だった。日本語も前に習っていたというだけあって、結構上手で、東京工大の学生であったが、秋からは授業が忙しくなるとのことで3カ月で終わりになってしまったのは残念だった。イリは自治区の中でも独立精神旺盛な都市で、ウイグル民族と漢人支配の官僚統制のハザマでの生き方と民族独立の難しさを教えられたような気がした。

 最初に教えた人のついでに、アルバイトとして最後に教えたご夫婦を紹介しておこう。
  今から3年くらい前だったろうか。当時は、世田谷三軒茶屋地区を中心に20人くらいで毎月日本語勉強会をやっていたが、その延長線上に日本語を教える任意団体を有志で作り、雑誌に団体の紹介記事を出して応募してくる外国人をFAX、メールなどで団体会員全員に紹介して、その要求にマッチした日本人教師が派遣される仕組みで、個人個人が先方と交渉して日程からフィーまですべてを自分自身で決める団体からの仕事が大部分を占めていた。

 その中の一組が代官山に住む若いスペイン人夫婦で、ご主人は定職を探す傍ら日本語を勉強しておこう、ご婦人は長沼学校に通いつつその余暇を利用して更に私にも序に習いたいと言うことであったが、ご主人が日本での就職を諦めるということで、3、4カ月で終わってしまったのはとても残念であった。住んでいるアパートも間もなく取り壊されるというので住居も探していたが、アメリカ人が家賃をつり上げていると嘆いていた。別れに当たって、スペイン無敵艦隊がイギリスに敗れた「アルマダの戦い」という翻訳本をプレゼントしてくれた。最初の中国新疆自治区の教師といい、最後のスペイン人といい、日本人にはない民族の誇りが感じられ、妙に印象に残っている。(続く)