変わった人
− 連載エッセー「徒然の森」第43回
by 北嶋 千鶴子

バラの花 父が交通事故で亡くなって33年経った。54歳だった。先日、事故現場だった地方の町に出かけて線香を手向けてきた。子煩悩な父は、一緒に手を合わせた孫やひ孫の訪れを喜んでくれただろう。

 私の父は、本当に変わった人だった。私が小学校のとき、わが家にはいつも知らない人が居候していた。親戚でも友達でもない。建設業だったが、仕事先の人でもなかった。駅で泊まるところがなくて困っていたからと言って、見知らぬ人を連れてきてしまうのだ。

 こう書くとさぞ大きな家に住んでいたとか、金持ちだと誤解されるかもしれないが、わが家は3部屋しかない貧しい家庭だった。家族4人が1部屋に、同居の職人がもう1部屋に、そしてあまった部屋に父が連れてきた人が寝る。その人たちはだいたい1か月ぐらいはタダ飯を食うというわけだ。

 私の子ども時代は今と違って、お米も配給の時代で、ご飯は麦や芋などと一緒に炊いていた。子ども心に何も入っていない白いご飯が食べたいと思ったものだ。そして彼らが家を去る日に決まって「お世話になりました。家に帰ったらお米を送ります」「スイカを送ります」などという感謝の言葉が残された。でも、誰1人としてお米どころか芋でさえ送ってきた人はいなかった。けれども父はそれに不満を言うでもなく、しばらくするとまた別の誰かを連れて来てしまうのだ。ただでさえ狭い家に大人がごろごろいるのだから、ぶっつき合って暮らしていたという感じがした。当時は家に風呂がなく銭湯に行っていたので、その費用も馬鹿にならなかったろう。父が生きていれば、どういう気持ちでそんなことをしていたのか聞いてみたい気がするが、父のことだから、何の考えもなくやっていたような気がする。

 そのころはまだ、生活の大変さはわからなかった。子どもだったので「お米たくさん来るといいね。」とか「スイカ、いつ来るの。」などと、決して届かないプレゼントを無邪気に期待していた。父は度々裏切られたわけだが、父はもちろん母も、そんなことは一言も口にしなかった。私は「約束は守らなければいけない」と教えられたので、どうして大人なのに約束を守らないのか疑問に思っていた。しかし今は、彼らは約束を守りたかったが守ることができない苦しい生活を送っていたのではないか、あるいはときどきは父のことを思い出してくれていたのかもしれないなどと考える。
(July 18, 2006)